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OBインタビュー(第6回) 正清宗昭氏(S35年卒)
お知らせ
2023.08.23

OBへインタビューして、色々な話しを聞こうというこの企画。第6回は済々黌ラグビー部のレジェンドといえばこの人、正清宗昭氏(S35年卒)です。昭和54年から平成10年という長きにわたり監督、その後総監督として部へ多大な貢献をされてこられました正清氏へ話しを聞きました。
【聞き手・構成 星子真一郎(平成6年卒)】

■高校時代
Q: ラグビーを始めたきっかけは
A: 中学時代はハンドボールで市内大会優勝。濟々黌入学後は、夏ごろまで野球部に所属したが、同級生の山中悟(山中晨さんの弟)にしつこく誘われてラグビーを始めた。

Q: 濟々黌ラグビー部時代はどんな選手だったか
A: ポジションはウイング。突っ込むのは性に合っていたのか、入部2,3か月で足首へタックルにいっていた。

■大学時代
Q: 大学(日本大学)時代の思い出は
A: 関西との定期戦、立命館大学との試合で、50mほど独走して、当時のスポーツ新聞に載ったこと。「自分はタックルだけはするから」ということで、味方に蹴らせて、相手FBにタックルしようとしたら、ボールがスポッと入った。昭和39年度だった。観客からも「14番がんばれ!」と声援を受けた。

■大学卒業後
Q: 大学を卒業してからは何をしていたか
A: 卒業して、埼玉の電気の卸会社に就職した。初めから、熊本に帰るつもりで2年間ほど働いた。

Q: 熊本に帰ってからは、何をしていたかA: (帰熊当初は)実家の正清電気(当時は上通りの「まるぶん」の所にあった)で働いた。父親が喜んで、ビル(現在の正清ビル)を建ててくれた。

Q: 濟々黌ラグビー部の監督になったきっかけは
A: 当時、ビルの収入があったので麻雀ばかりしていた。細かな理由は忘れたが、35歳くらいから濟々黌へ行きだした。午後2時くらいから学校に行き、夜8時くらいに自宅へ帰ると麻雀をする時間が無くなった。そのことを、かみさん(故人)はとても喜んでいた。

Q: 記憶にある優秀な選手はだれか
A: 田島賢一(H2年卒)。グラウンドを走らせると、とにかく速かった。早明戦に出場する時に、明治大学へ挨拶に行った時、北島忠治さん(元明治大ラグビー部監督)に「寄って話していけ」と誘われたが、緊張して断ったことが今でも悔やまれる。あの時、話していたら、一生の自慢だったのに・・・。

Q: なぜ、ドリブルやキックパスをさせていたのか?A: 大学時代にやっていたこともあるが、自分が好きでさせたかったから。

Q: 夏合宿(大分県湯平)での合宿について
A: 湯平は、木下應韶氏(S36年卒。元大分舞鶴高校等監督)がグラウンドを作って、濟々黌のつながりで誘ってもらった。とにかく、ケガをさせないことを一番に考えていた(平成3年ごろは、東福岡、筑紫、松山聖陵、山口等10数校が集まっていた)。

Q: 監督として忘れられない試合は
A: 何十年も(監督を)したから忘れた。ただ、花園へ行った時(H11年卒が3年生の時)は嬉しかった。

Q: 監督してのモットーは
A: とにかく親から預かった生徒にケガをさせないこと。おそらく大けがをした生徒はいないはず。これが自分の自慢だ。練習は基礎練習を大切にした。

■その他
Q:ラグビー部の現役、後輩へメッセージを
A: とにかく大切な体だから、ケガをしないようにしてほしい。勝ちたい気持ちもあるだろうが、ケガをしない方が大事だ。